2024.03.22(更新日)
現代の山主ふたりに聞く!「山を守る」ための新しい林業のカタチ
吉野地域では、密植・多間伐・長伐期という特徴的な育成方法でそのような優良な材を生み出してきました。
吉野林業発祥の地として知られる奈良県吉野郡川上村にある下多古(しもたこ)地区には、江戸時代に植えられたという木々が、太く、大きく、そびえ立っています。
その整然と立ち並ぶ木々の美しい佇まいは、長きにわたり、人の手によって手間暇かけて育てられてきたことが感じられ、日本三大人工美林の名にふさわしい堂々とした風格を備えています。
しかし、今、その美しい森林が、失われるかもしれないという危機に直面しています。
住宅建築様式の変化の影響で、高度経済成長期をピークに吉野材の需要は減ってきており、現在では、担い手不足により吉野林業の伝統的な山林管理体制は崩壊の危機に瀕しています。
代々続く吉野地域の山林所有者である山主の家に生まれ、吉野林業の移り変わりを身近で見つめ、新しい林業の形を模索してきた清光林業株式会社取締役名誉会長岡橋清元(きよちか)さん、谷林業株式会社代表取締役の谷茂則さんに現代の山主からみた林業のこれからについてお話を伺いました。
おふたりはいわゆる「山旦那(山主)」さんですが、それぞれ何代目になりますか。
清光林業株式会社 取締役名誉会長 岡橋清元さん(以下、岡橋さん)
岡橋さん 江戸時代の中期ごろから山林を買い取る山主として林業を営み、私が17代目です。先祖は今の奈良県橿原市(旧真管村)で代々庄屋をやっており、当時は約70ヘクタールもの土地を小作に出す大地主でした。私の父の代では、林業をおもな生業としていましたが、その頃にはすでに山守制度が確立しており、山主に代わって山を管理する山守さんが、うちには66人いました。山守をまとめる守頭(しゅっと)が大番頭の役割を果たし、山を経営していたので、私の父は生涯で2回しか山に行かなかったそうです。山主が直接林業経営に口出しすることはありませんでした。1950年(昭和25年)に清光林業を立ち上げ、法人として一部の山林を所有・管理し、林業事業を本格化させました。今年で創業73年を迎えます。
谷林業株式会社 代表取締役 谷茂則さん(以下、谷さん)
谷さん 私の実家は、江戸時代後期から、現在の奈良県北葛城郡王寺町周辺で山林経営を始め、その後、吉野地域での林業に進出しました。私の父親が13代目ですので、私で14代目になります。谷林業株式会社として、吉野地域を中心に約1,500ヘクタールの山林を所有管理しています。また、王寺町に所有する里山林『陽楽の森』でのイベント開催、薪ボイラーや薪ストーブの販売など木質バイオマスインフラの普及を進めています。また、奈良県天川村で薪ボイラーを導入した温浴施設の運営に携わるなど、森林・林業を価値あるものにすべく、さまざまな事業に挑戦しています。
実は、谷家と岡橋家には古くからつながりがあり、曾祖母が岡橋家から谷家に嫁いできたことをきっかけに、曾祖父は妻の生家である岡橋家を目標とし、山林事業を拡大していったと聞いています。
吉野地域の「山守制度」とはどのようなものでしょうか。
岡橋さん 吉野林業の歴史は、今から500~550年前の室町時代にさかのぼります。植林が盛んになったのは江戸時代中期頃。山の維持費を確保するため、富裕層に対し、植林した山の地上権を売って資金を集めました。県内だけでなく、和歌山や大阪、京都などから資金を得ることができたと聞いています。当時の富裕層は、木が売れるようになったときにお金が入るだろうと、“投資”したわけです。そうした人の多くは山林から離れたところに住んでおり、山林を直接管理するのが難しいため、地域の信用のおける人に山の管理を任せました。これが山守制度の始まりです。
山守は、山主に代わって山の管理を行い、木の売上げの3~5%が山主から支払われることで、生計を立てていました。山主のほうも、山守を雇用しているわけではないので、毎月の賃金を支払う必要がありません。木が高く売れるまで待つほうが山主にとっても山守にとっても都合が良く、長伐期で木を育てるシステムと長期の投資がうまく嚙み合った制度でした。
山守制度のおかげで、吉野地域の村はどんどん栄えていきました。苗木を植えれば、山主が再び投資をしてくれるので、川上村では尾根まで木を植えていました。植林してから10年程度の細い丸太は束木(たばねぎ)丸太と呼ばれ、数寄屋造りの竿縁天井に使われました。長さ2メートル弱の細い丸太なら女性でもまとめて運び出せるし、もう少し大きくなれば稲架掛(はざか)け棒や足場になるなど、間伐材でも十分に儲けが出たんです。私は、吉野地域で密植が盛んだった理由のひとつは経済的な利点もあると思っています。山守制度のおかげで、川上村は全国的にも裕福な村でした。
2024.03.22(更新日)
現代の山主ふたりに聞く!「山を守る」ための新しい林業のカタチ
山主が投資家だとすると、自ら現場で作業を行うイメージが湧かないのですが、岡橋さんが、山に入ろうと思ったきっかけについて教えてください。
岡橋さん 私が林業の仕事に携わるようになったのは昭和49年(1974年)。当時の吉野地域はヘリコプター集材が主流で、運搬費のコストは相当なものでした。
大学を卒業後、岐阜の林業会社で大型機械を導入した近代林業を学んだ私は、林業ブームに乗り、自分の所有する山林がある吉野地域で近代林業を実践しようと考えました。当時、二十代の若い山主のあいだで林業について盛んに議論が交わされ、林業研究会、林道研究会、作業道研究会などもあり、林業を盛り上げていこうという機運がありました。しかし、そのころ吉野地域はまだまだ閉鎖的で、山守の許可がないと山主も山に入れないような時代。私も若くて、山守制度のことなどあまり深く考えていませんでしたね(苦笑)。
岐阜の林業会社によく来られていた林業工学を専門とする大学の先生に伐採した木を伐り出すための作業道の図面を描いてもらい、管理をあまりしていなかった上北山村の所有林で道幅3.5m~4mの作業道を業者に依頼し、つくろうとしました。しかし、奥へ進めば進むほど道が崩れてしまい、全くうまくいきませんでした。岐阜の山林で通用した近代林業の特徴である大きな作業道の施工方法が奈良県南部の土質や急峻な斜面には向いていなかったんですね。
そのころは、山主自ら山に入ることがほとんどなかったわけですから、あとから「ボンさん(若い跡取り)の火遊び」と山守さんたちに随分陰口をたたかれました。
谷さん 岡橋会長が長年作業道づくりを行っているという話は、父親や山守さんから聞いて知っていました。私が林業に関わりだした当初、山守さんからは「ボンな、岡橋の社長(当時)みたいになったらあかんで。山旦那(山主)は広く見渡す位置にいる旦那でないとアカン。もし、山でまくれて(転がって)死んでみいや。相続税がかかって、山守や社員みんなに迷惑がかかる。あんたのお父さんが旦那としての理想像や。いらんことしたらアカン」と言われました。
岡橋さん その後、葛城山の西向きの急峻な山で、一人で作業道を作っている人がいるという噂を聞き、山を見せてもらおうと思い、その人の元を訪れました。それがのちの師となる大橋慶三郎先生です。先生に(先生の)山を見せてくださいとお願いしましたが、そのときは、「俺の山みてもしゃあないわ」と断られました。しかし、後日、林業試験所(現:奈良県森林技術センター)で造林の研修があり、大橋先生が講師として来られていたので、私が上北山村の山林に作業道をつくろうとしたけれどうまくいかなかったことをお話しました。
先生に「あんた、その壊れた道はどうするんや」と聞かれ、「壊れた道は放っておかなしゃあないですわ」と答えたところ、「そんな無責任なことするやつには教えへん」と一喝されました。壊れた道を自分で修復するなら教えようと言われ、その翌年に西吉野村(現:五條市)で行われた10日間の実務研修に招待されました。そのような関係で、後日、大橋先生に実際に上北山村の山に来てもらい、壊れた道を半年かかって修復。そして昭和58年(1981年)から自分たちで作業道づくりを始めました。大橋先生の考え方は「道をつくって、木を安く出す」という単純で分かりやすいもの。地形を生かしてつくった作業道は道幅2.5m、2tトラックが通れる山を崩さない道です。日本の林業にとって、この作業道づくりは必須だと思い、大橋先生の弟子として先生に付いて講演と調査などで北は北海道、南は鹿児島まで全国各地あちこち行かせていただきました。そしてそのうち、次第に私も講師として作業道づくりを各地で実践的に教えるようにもなりました。
作業道づくりで最も難しいのは、どこに道をつけるのかを決めること。まず、地形図や航空写真を見て下調べを行い、山の成り立ちを知ったうえで山に入る。切り返しをどこにつけて、高さを稼げるか。また、たくさんある谷の中で、どこの谷なら渡れるかを判断しなければなりません。山を歩いて、印をつけて、最後にそれらをつないで1本の道にしていきます。大橋先生からは「山を歩いて、山の声を聞け」と言われてきました。
平成23年(2011年)の紀伊半島大水害では、多くの山が崩れました。ところが大橋先生の教えに従ってつくられた道はどこも崩れなかったんです。それから、奈良県ではそれらの作業道は「奈良型作業道」という名前で広く県内に普及するようになりました。
岡橋さんがつくった道幅2.5m程の作業道
作業道の入口に設置された 大橋先生の作業道についての説明パネル
谷さんがご自身で山に入ろうと思ったのはなぜですか。
谷さん 私のようなボンボン育ちでは、危険な林業に挑戦できるとは到底思えませんでした。それでも、心のどこかで幼い頃から自分を取り囲む林業の世界に憧れを持っていたのかもしれません。作業道づくりに取り組む岡橋会長や山仕事に従事する山守さんのようなカッコいい林業家になりたいと思うようになっていました。
20代の頃、家業を引き継ぐなかで、宅地建物取引主任士や税理士の資格を取得し、家業の経済基盤を整えていきました。そのあいだも、三重県で開催されていた林業塾に参加するなど、林業事業に取り組むための準備をしていました。
ある程度、経済基盤の立て直しに目処がついた頃、私は本格的に林業に携わり始めました。その頃ちょうど、私と同世代の吉野地域の山林所有者たちが親の世代から山林を引き継ぎ始めた時期であったこともあり、周りに同じ志を持った林業仲間がいるという希望と安心感がありました。
まずは、吉野地域での除伐や間伐などから始め、やがて作業道づくりや素材生産事業も行うようになりました。林業塾で知り合った仲間の存在や岡橋会長たちの力強いサポートがあり、林業事業への挑戦に踏み切れたのだと思います。
平成23年(2011年)、王寺町の山林で作業道づくりを行った際には、岡橋会長にユンボ(油圧ショベル)の購入の世話から路網踏査や技術指導など何から何まで本当にお世話になりました。ユンボをこかし(転がし)かけた時、水道パイプを切断した時など、様々なトラブルが起こる度に岡橋会長に助けを求めました(笑)。その都度、嫌な顔ひとつせず快く助けていただいた会長には本当に感謝しています。
ほかにも、谷林業の若い社員が清光林業で一年間作業道づくりの修行させてもらうこともありました。その社員は、今では作業道づくりの現場監督を任されるまでになりました。
作業道づくりを行う当時の様子
おふたりは県内で林業に従事する方へのサポートも行っているのでしょうか。
岡橋さん 私は現在はもうほとんど引退してしまったのですが、弟が作業道づくりの指導を行っています。全国各地から人が修行に来て、熱心に取り組んでいますよ。吉野に根付き林業を続ける方と、地元に帰って作業道づくりを行う方の2通りいらっしゃいます。
谷さん 平成22年(2010年)ごろから、森林・林業再生プラン※の実現に向けて作業道の専門家として岡橋会長が呼ばれて政策提言するなど、林業が盛り上がりを見せて、若手が集まる機会も増えました。うちの会社も作業道づくりや素材生産事業を手掛けるようになっていましたが、林業に携わる人のバックアップ体制をさらに整えたいという気持ちがあります。
例えば、「親から引き継いだ山林を自分で管理できないので手放したい」という人も少なくありません。私は家業を継ぎ、会社の財務基盤を整えていきましたが、そのあいだに取得した資格の知識を生かし、同じような立場で困っている人に対して税務や登記の面だけでなく、森林売買などの観点からも幅広くサポートできる仕組みを作りたいと思っています。
まだ素地づくりの段階ですが、王寺町のような森林組合がない地域にこそ、そういう仕組みが必要かなと。昔、山守さんらが集落で作っていたネットワークをもう一度組み直すといったことも少しずつですが考えています。
※森林・林業再生プラン・・・平成21年(2009年)、「コンクリート社会から木の社会へ」を合言葉に農林水産省が作成した森林・林業の再生を目指すためのプラン。
2024.03.22(更新日)
現代の山主ふたりに聞く!「山を守る」ための新しい林業のカタチ
活動を通して感じた林業の課題や、気付いたことなどはありますか。
岡橋さん 昔に比べて今は林業の経営が成り立ちにくくなっていると感じます。まずは獣害。網を張っても乗り越えられて、植林しても鹿にみんな食べられてしまいます。鹿の頭数を制限しなければならないのですが、手遅れ感も否めず、生態系や自然環境にもかなりの影響を及ぼしています。これまでは冬の厳しさやエサ不足で淘汰されていましたが、オオカミの絶滅、温暖化、過疎化、猟師の高齢化で、かなりの頭数が生き残っていけるようになりました。植林に対して政府から補助金が出ても、厳しいと感じています。
谷さん 吉野林業の根幹を支えた山守の後継者や林業の担い手不足が大きな課題になってきています。かつての吉野林業は山守によって栄えました。山守は、川上村という奥山のコミュニティを基盤に、京都や大阪などの大都市での木材需要を知り、吉野川の河川改修による木材運搬インフラを整え、吉野林業の経営基盤を切り拓いた非常に優秀な経営者だったと聞きます。
そのような優秀な経営者の観点をもった山守さんの後継者を育成することは非常に難しいことですが、何とかそのような人材が育つ仕組みを作れないかを日々試行錯誤しています。
そのような課題に対してどのように取り組まれるべきだと思いますか。
また、今後の林業の展望についてお聞かせください。
谷さん 林業の復活というのは大変難しいテーマなので様々な角度からのアプローチを模索していかなければならないと考えています。
現在は、数名の山林所有者の方々とJクレジット制度※による森林吸収源クレジットの創出など新しい森林の価値化の取組に挑戦しています。脱炭素社会・生物多様性の実現に共感・貢献してもらえるモデルケースをつくっていき、そこから生まれる経済価値を再び林業に投資し持続可能な循環につなげていきたいです。
令和5年11月に、私が所有する森林が「自然共生サイト」※に認定されました。岡橋会長にご指導いただき私が初めて作業道づくりを行った森林 陽楽の森です。
2014年~16年には、この森で「チャイムの鳴る森」という2日間開催のイベントを企画し、毎年5千人を超える来場者を集めました。また、障がい者事業所「特定非営利活動法人なないろサーカス団」の活動の場として、地元の昆虫生態写真家の自然観察会が開かれる場として、陽楽の森は今、地域の方だけでなく、多くの人の交流の場となっています。
※Jクレジット制度・・・省エネルギー設備の導入や森林経営などの取組による、CO2等の温室効果ガスの排出削減量や吸収量を「クレジット」として国が認証する制度。
本制度を活用してクレジットを創出し、また、創出されたクレジットの活用を通じ、地球温暖化対策への積極的な取組のPRを行うことや、クレジットを企業等へ売却することで、売却益を得ることができる。
※自然共生サイト・・・令和5年度から開始された環境省の取組。企業の森や里地里山、都市の緑地など「民間の取組等によって生物多様性の保全が図られている区域」を認定する。令和6年2月時点で認定区域数は、185カ所。
多くの人で賑わう「チャイムの鳴る森」
特定非営利活動法人なないろサーカス団のメンバー
自然共生サイトの認定証を受ける谷さん
谷さん 林業自体を魅力的な仕事にして、林業に従事する人たちが集まってきたらよいなと思っています。そこで岡橋会長に教えてもらったことをもう一度やりなおしてみようと思っています。自分たちで伐り出した木を自分たちで製材して、陽楽の森にベーカリーやカフェなどの集客施設をつくる計画をしています。山主も山守の方も「今の林業をなんとかしたい」という気持ちが強いので、私たちが手掛けていることがモデルケースになって、仲間が増えていってほしいですね。
岡橋さん 林業が抱える問題の解決策は、「安定した値段で材木を買ってもらえること」そして「安定して材木を使ってもらえること」に尽きます。私たち一人一人が自覚的に地元の木を使わなければ、森林も荒廃していくでしょう。やはり大きな需要となるのは私たちの暮らしに密接に関係する建築です。近年では、建築技術の進歩もあり、一戸建ての家だけでなく、中高層ビルもマンションやアパートも木造で建てることができるようになってきています。そういった建築にどんどん地元の木を使っていけば、木材の需要が増えます。木の価格さえ安定すれば、みんな一生懸命に植林します。そうなれば、獣害対策も進んでいくでしょう。木材の値段が上がらなければ、そういう知恵を出す元気もなくなるんですよ。“日本の木”を使った建築が世の中にもっと増えていけばうれしいですね。
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山主が山に入ること自体が珍しかった時代に自ら山に入り、奈良県の風土に適した作業道づくりを実践し、「奈良型作業道」を確立した岡橋さん。岡橋さんの教えを受け継ぎながら、林業の可能性を広めようとさまざまな新しいプロジェクトに取り組む谷さん。
それぞれご自身の活動を通してこれからの林業のあるべき姿を模索してきました。
おふたりの姿からは山主として受け継いだ美しい山林を守り、林業を持続可能な産業として復活させたいという強い想いが感じられます。
また、幼い頃から山を守ってきた人たちの姿をみて育ってきたおふたりにしかわからない、山を守ることに対する特別な想いもあることでしょう。
美しい山を次の世代に残していくために必要なこと。それは、私たち一人一人が山主や山守の立場に立って、地域の森林のことを考えていくことなのかもしれません。
INFORMATION
清光林業株式会社
住所 | (本社)大阪府大阪市浪速区幸町2-2-20 清光ビル9F (支社)奈良県吉野町飯貝701 |
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URL | http://www.seiko-forestry.co.jp/ |
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